1995年(平成7年)1月17日5時46分
「震度7」が適用された初めての地震。
また全国からボランティアが駆け付けた「ボランティア元年」でもあります。
あの時、あなたはどこで何をしていましたか?
わたしは、下関の関門橋近くにいました。
父の単身赴任先の下関を拠点に、
北九州から愛知県へ戻りながら、
レンタカーや電車を乗り継いで一人旅をしてる途中でした。
ゆれる寸前に異変を感じて目がさめました。
地鳴りがしたような。
当時はまだインターネットなどなく。
すぐテレビをつけたことを覚えています。
下関でもしっかり揺れました。
日がのぼるにつれ、あきらかになる被害状況。
横倒しになる高速道路など、見たこともない悲惨な光景がうつしだされるテレビを、一日中見ていた気がします。
そして一人旅は中断して、
下関でしばらく過ごすことに。
当時テレビなんかでボランティアの存在を知りました。
あの時いち早く動いた人たちすごい。
すごいけども、
良かれと思って準備もなく簡単に震災地へ集まることが、
必ずしもいいことばかりではないんだ、
とゆーこともはじめて知りました。
衣食住を自己完結できないのに、
被災地入りしてしまったりすることが、
かえって迷惑だったりする。
いろいろ思うことの多い震災でした。
わたしの住む東海地方は、
子供のころから「いつ大地震がきてもおかしくない場所」
として言い伝えられ、脅されて育ちました。
だからもともと防災意識の高い地域になると思います。
今では、今後かならずおこるる「東南海地震」として、
いつもわたしたちの意識に植え付けられています。
心の準備は子供のころに強制的にさせられてきました。
だからこそ、ここまで無事小出しの地震で済んできたのかなと思う。
たくさんの人々の心の準備の思いが、地震を抑え込んでいる。
子どものころからドキドキしていたのに、
いつも大きな地震は遠くのどこかで起こる。
そのたびに胸が痛かった。
この時の震災があったことで、
地震の防災対策特別措置法や、
建物の耐震改修の促進にと、良い変化に大いに役立っている。
そして、死因の9割が家屋の倒壊と家具の転倒であったこと。
そのための耐震改修と、
家具の固定、
そもそも大きい家具は置かない、
など自分で自分を守ることを何かするということ。
その後の東日本大震災へとつながる地震意識を植え付けられました。
東北に誰に言われるでもなく、
ボランティアが集まり、
自己完結できる自衛隊の活躍を見るにつけ、
あの時のことを忘れることはありません。
防災セットは人数分備えてます。
簡易テントも簡易トイレも備えてます。
ソーラー式の充電器を備えてます。
背の高い家具はありません。
くつを寝室に置いています。
水は2箱、回転式で保存してます。
などなど
備えが大事。